自分のクローンがゲーム内にいたら ブラックミラー「宇宙船カリスター号」レビュー
「宇宙船カリスター号」の概要
Netflixオリジナル作品である「ブラックミラー」シリーズ。気づかない間にシーズン4が既に公開されてました。それももう6話まで。ということで1話から見ていこうと思います。1話のタイトルは「宇宙船カリスター号」。ブラックミラーシリーズは大体どの話も、現在存在しているテクノロジーや概念なんかを極端?に発展させた世界観の上で話が進みます。だからどの世界観もなんとなく既視感があり、その分結構馴染みやすい世界観になっています。ですがその分居心地が悪くもなります。
「宇宙船カリスター号」の世界観は、完全没入型ゲームが完成している世界の話です。ソードアート・オンラインとかそういったものを思い浮かべれば良いと思います。これだけ聞くと「あ〜いつものSFね」と思うところですが、そこはさすがブラックミラー、独特な視点で描かれています。
簡単にまとめると「ゲームを作り出した神vsゲーム内の登場人物」というストーリーです。これもよくある話ですね。けれど少し違うのは「ゲーム内の登場人物」というのが、現実世界の人間のクローンということです。現実世界の人間のDNAをゲームに取り込むと、その人間の完全なコピーがゲーム内に登場します。そして「ゲームを作り出した神」ももちろん現実世界の人間です。
「ゲームを作り出した神」は現実世界で鬱屈な人生を過ごしています。そしてそんな要因を作り出している職場の人々のDNAを盗み、彼ら彼女らのクローンをゲーム内に送り込みます。そしてそこで神となった自分が職場の人々のクローンを虐めて、現実世界での鬱憤を晴らすという感じです。
この話で設定されていることは以下のことです。
・現実世界の人間が装置を使って、ゲームの中にダイブできる
・現実世界の人間のDNAを使用することで、そのクローンをゲーム内に取り込むことができる
一つ目はよくある設定っぽい気もしますが、2つめは以外となかったかもしれないですね。あくまでクローンというのが大事で、現実世界の人にとってはなんら関係のあるものではありません。この設定は結構良くて、ゲーム内に取り込まれた後も現実世界の記憶を持っているということになります。なのであくまでゲーム内の登場人物に過ぎないのだけれど、現実世界の概念も理解しているということです。今作ではそこまでこの深掘りされていないけれど、色々と想像が膨らむ設定ですよね。
ゲーム内にいる自分のクローンを客観視すること
この映画を見終わった後に最初に感じたことは、「ゲーム内に自分のクローンがいた時、現実世界の自分はどう思うだろうか」ということです。「宇宙船カリスター号」の設定はゲーム内の境遇があまりにもひどがったのでアレですが、もっと違う世界の中で自分のクローンが存在しているとしたらどうでしょうか。
自分のクローンということは、現実世界の自分がゲーム内にいた時と同じ思考・行動をとるということです。「全く同じ自分」が「全く違う環境」で考えて動いているというのは、なんとも奇妙で好奇心がくすぐられます。現実世界を極限に模したゲーム内なら、ある種シミュレーションもできるということですよね。
「宇宙船カリスター号」に存在している自分のクローンももちろん想像しましたし、ファイナルファンタジーやドラクエ、CODやBFなどで想像するのがとても楽しかったです。よく自分がそのキャラになりきる、ということは子供の時とかにするかもしれませんが、自分とは別の存在としてゲーム内で活動しているクローンを外から見る、というのはまた違った趣があるのかもしれないですね。例えただの想像だとしても。いつか、そういう日が来るのでしょうか。
英語学習の必要性はどこにあるか
英語学習の必要性については長年議論されている。多くの考えはあるが、ここでは多くの人間にとっては、「コミュニケーションツールとしての英語能力」は必要ではなく、「英語の知識にアクセスする能力」のみが必要であることを書きたい。
必要ではない英語能力
今まで、グローバリズムという時代背景を常にバックにして英語教育は進められてきた。それは「英語を使うことができないと、社会で生き残れない」というような印象を多くの人に抱かせることに成功した。勉強する側は半ば脅迫観念のようなもので勉強をするし(または受験のため)、教育する側は英語を使えるようになることが正義として、自身をもって提供してきた。結果としては、それが英語能力の向上という意味で成功したとは言い難いけども、「英語が必要である」という精神性を身に着けさせたという意味では、大きな効果はあったはずだ。
そして英語が必要であるという考えを身に付けさせることに成功した上に、それは「コミュニケーションツール」として必要なのだ、という印象を持たせることにも成功した。某予備校の英語教師などは「英語は言葉なんだ。誰でもできる」と言っている。この文章自体は全くその通りなのだけれども、「言葉」というワードを使うことによって、なんとなく英語と言うのは「会話を行うためのもの」という印象を抱かせる。確かに英語は言葉であって、本来はコミュニケーションを行うための道具である。だから日本人が英語を「話せないこと」に関して物凄く揶揄されたりするし、自己否定にまで陥っているケースが多くない。日本の受験勉強のように、入試問題を解くために勉強した英語などは、この目的にそぐわない英語能力しか養えない。TOIECで800点を取ることができても、日常会話すらできない人はおそらく沢山いる。
だけど英語圏で生活していない日本人が、「コミュニケーションツール」としての英語を学ぶ必要性がどれほどあるのか疑問だ。外資系企業など、外国人が常に身近に存在するような環境にいない限り、英語でコミュニケーションを取らなければならない状況には中々なるものではない。むしろ、そのようなケースがないからこそ、日本人の「コミュニケーションとしての英語」はなかなか培われない。
だから英語をそのように捉えるのはもう止めても良い。「日本人は英語を話せない」と揶揄されようが、それは「必要ないから」と自身を持って言っていい。それは日本という国の特殊性でもあるし、そこに変な自己否定を入れる必要はない。コミュニケーションツールとしての英語は放棄しても良い。
もちろん、それは例えば教育のような舞台で考えられる、英語教育においての話だ。今後英語圏で活躍したければコミュニケーション英語は必要だし、よりグローバルで活躍したいのであれば、そうした能力も養わければいけない。ここで書いてるのは、あくまで大多数の日本人における英語能力についてである。ローカルで生活する普通の日本人にはそのような能力は別に必要ではない。だから英語に対して変な強迫観念を抱く必要はない。
必要な英語能力
だけど強調して書いておきたいのは、コミュニケーションとしての英語能力は必要ではないが、「英語にアクセスする能力は必要である」ということだ。英語圏に住んでいなければ外国人とコミュニケートすることはないが、インターネットと接する私たちは常に英語で書かれた知識にアクセスすることができる。そしてそのようなルートがあるということは、英語知識にアクセスできるかできないかで、両者には大きな知識格差が起きるということだ。
英語知識にアクセスすることができなければ、インターネット上で公開されている多くの記事や論文、ビデオなどの有用な情報を手に入れることができない。大学講座など、様々な有用なコンテンツが英語で公開されてることを考えると、これは想像以上に重大な問題であることを意識した方が良い。
インターネット上にどのくらい英語が、そして日本語があるか大体理解できるグラフがある。このグラフを見ると25.3%ほどは英語ユーザであることが分かる。そして日本語ユーザはたったの3.0%である。日本語しか読めない・聞けないのであれば、たったの3%の知識にしかアクセスできないことになるのだ。また、中国語やアラビア語の成長率もなかなか興味深いので、今後は英語に加えて中国語に対するアクセス能力も求められるかもしれない。
Googleの使命は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」であった。しかしそれは「可能」にしてくれただけであり、実際に実行できるようになるのは、個人に任されていることを忘れてはいけない。「アクセス可能」になったということと、それを実際に行うかどうかとは、全く別物なのだ。
もしその目的の英語を学習することすら鬱陶しいならば、機械翻訳の精度がさらに向上することを期待しておこう。そうなれば多くの日本人にとっては、とうとう英語学習は必要なくなる。私たちの目的は多くの知識に実際にアクセスすることであり、英語を使う事自体が目的ではないからだ。機械翻訳がそれを格段に容易にしてくれる。
参考:
現代は決して悪い時代ではない 「繁栄」 by マット・リドレー
繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: マット・リドレー,大田直子,鍛原多惠子,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/07/10
- メディア: 文庫
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国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: ダロンアセモグル,ジェイムズ A ロビンソン,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/05/24
- メディア: 文庫
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国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: ダロンアセモグル,ジェイムズ A ロビンソン
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/05/24
- メディア: 文庫
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筋トレが「人生に必要なこと」の全てを教えてくれる
あなたは「筋トレ」をしているだろうか?
もししていないのなら、早く始めたほうが良い。致命的な損をしているからだ。
身体を鍛えると、運動不足を解消できるとか、頭脳が明晰になるとか、筋トレのメリットを語ろうと思えばいくらでも出てくるだろう。しかし、それらのメリットはもう誰もが知っている事実であり、少し退屈ですらある。それにそんなことを今更言われたところできっと心には響かないだろう。
そういう訳で、今回は全く別の観点から筋トレの素晴らしさを考察したいと思う。いや、それは素晴らしいという言葉でも言い足りないくらい重要な事を私たちに説いてくれる。それは次の誰もが抱いている重大な問いへの答えだ。
「人生において大切なことは何か?」
その事を理解するために、「筋トレ」に取り組んでいる人が持っている性質を洗い出してみよう。そして、それらがどのように人生に関わってくるのかを並行して見ることによって、「筋トレ」と「人生」の意外な共通点を理解できるはずだ。
1: 自分で目標を立てる
「筋トレ」を行っている人は、自分がどの様な目的を持ってトレーニングをしているかを理解している。フィットネスやダイエットかもしれないし、とにかく筋肉を肥大化させようとしてるのかもしれない。しかし彼ら彼女らはただ単にトレーニングをしているわけではなく、自分の目的の身体を実現するためにトレーニングを行っているのだ。
これは一見当たり前の事のように思えるが、とても重要な事である。
痩せる目的と、筋肉を肥大化させる目的とは全然別の目的である。しかしそれにもかかわらず、彼らは同じ筋トレを行う。「筋トレ」は「自分のなりたい姿」を誰に押し付けられることなく、自分で決定して、日々トレーニングを行うものなのだ。なりたい姿を自分で決定しない限り、そこにトレーニングという手段は生まれてはこない。
人生はどうだろうか?
学校のテストで高得点を取る、会社で昇進する、はたまた「金儲け」をする。これらの目的は本当にその人自身の「目的」なのだろうか?
いや、これらは他人や社会の通説が強引に設定しているものにすぎない。そこに自分の意思を介した目的というは存在せず、なんとなく人生を過ごす結果に陥っている。
どうしてそれぞれ違う人間なのに、同じ目的を目指さないといけないのだろうか?
「筋トレ」はそれぞれの体質・体型・理想をベースに目標を自分で決定する。
「人生」もそれぞれの個性・理想をベースにした目標を自分で設定すべきだろう。自分を導く先は、自分で決定するべきのだ。
米ゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者、ジャック・ウェルチの言葉を載せておこう。
Control Your Own Destiny or Someone Else Will(自らの運命をコントロールせよ。さもなければ、他人にコントロールされることになるだろう)
2: 限界を少し超える
筋トレを行うからには、もちろん筋肉を鍛えなければならない。ではどのようにしたら鍛えることができるのだろうか? 筋トレをしている人ならばすぐに答えが出てくるだろう。それは、
「限界を少し超えること」である
重りを持ち上げている最中に、自分の筋肉が悲鳴をあげ始める。そう、それは筋肉が限界を示している印だ。筋トレに慣れていない人ならば、ここでトレーニングをさっさとやめて、SNSに「いい汗かいた」などど投稿し始めることだろう。だが日常的に筋トレをしている人は違う。筋肉が悲鳴という産声をあげた時、それはトレーニングを止めるときではなく、トレーニング開始の合図なのである。
筋肉が限界を迎えたところで「もう2回」最後の最後の力を振り絞って重りを持ちあげる。その「限界を少し超えたトレーニング」が筋肉にとって最高の栄養剤となるのだ。日常的に筋トレをしている人はこのことをよく知っており、日夜実践している。
人生に置き換えたらどうだろうか?
人生において自分の限界を思い知らされることは多々あるだろう。それは人間関係かも知れないし、能力的な問題かもしれない。多くの人間はこの問題にぶつかった時、手っ取り早い改善方法を探そうとする。限界を超える裏技が存在すると信じているのだ。しかし、そんな幻想は存在しない。結局、事実を思い知らされ自分を成長させることができないでいるのだ。
「限界を少し超える」は成長するために必須な処方箋だ。簡単に自分の限界を拡大する方法など、この世にはありそうもない。ならば日頃の生活で「限界を少しずつ拡大していく」ことで、塵も積もれば山となる、あなたの限界は当初と比べ物にならないほど広がるのだ。
イチローも次のような言葉を残している。
自分の限界よりも、もう少し頑張ってほしい
3: 報酬による継続
筋トレの効果を存分に発揮するためには「継続する」ことが欠かせない。しかし言葉で言うのが簡単だが、忙しい現代人にとって、定期的に同じことを継続するのは容易なことではない。
筋トレをしている人はどうやってこの難題をクリアしているのだろうか? 何故彼らは、生活の中にトレーニングを組み込むことに成功しているのだろうか?
それは筋トレというものが持っている性質の一つのおかげなのだ。
「目に見える変化」である。
上述したように、筋トレをする際、人々はそれぞれの目標を立てる。違う目的なのだから、皆別々の方法をとって目標に向かっていけば良いと思うかもしれない。いや、違う。「目標を達成する」という目標は皆平等に持っていることを忘れてはいけない。
「目標を達成する」という目標を達成するにあたって、筋トレは「目に見える変化」という報酬をもって支援してくれるのだ。いくら立派な目標をたてたところで、日々何も変化することがないのならば、どうやって継続したら良いというのか。 筋肉は私達の努力をちゃんと見てくれており、育ててくれたお礼をしっかりと返してくれる。
人生においても同じことが言えるだろう。
人生の中で様々な目標を立てる人がいるが、「その目標を達成する方法」という視点を欠いてしまう人が多い。人それぞれの目標の中でも、人が達成するという「目標」であることには変わりない。達成するための方法論をしっかりと吟味するべきなのだ。
そして筋トレは「目に見える変化」というヒントを与えてくれる。「目に見える」とまでいかなくても良いかもしれないが、自分の日頃の努力しだいで「実感できるレベルの報酬」を組み込むことが大事なのだ。
自分の努力に、もっと優しい目を向けてあげるべきだ。
4: アンラーニング
筋トレをしている人なら誰もが体験していることがある。
トレーニングを終えた後、疲れた身体をのそのそと動かしながらロッカーに向かう。そして、そこにある鏡をじっくりと覗き込み、自分の成長した筋肉にうっとりするのだ。身を削るようなトレーニングを今日も乗り越えることができた、という満足感を味わい、さらに自分の理想に近づいてることを目で確認するのだ。なんという至福の時間だろうか。
だがその至福の時間もすぐに終わりを遂げてしまう。次の日の朝、失望を隠せない事実に目の当たりするのだ。
昨日あれだけ大きくなっていた筋肉がしぼんでしまっているではないか・・・。
筋トレ直後は筋肉が肥大化するが、その肥大化は一時的なものにすぎない。筋トレをしている人なら周知の事実であるが、それでも何と辛いできことなのだろう。筋トレの神様はなんという残酷な仕打ちを施すのだろうか。
しかしココからが重要だ。
彼らはそれでも負けじと筋トレを続けるのである。どんなに次の日に失望することを分かっていようとも、それでも新しい領域に足を踏み入れ続ける。過去の結果や経験に惑わされず、常に未来に期待を見据えているのだ。
これは「アンラーニング」という考え方に近い。
「アンラーニング」とは、「一旦学んだ知識や価値観を意識的に捨て去って、新たに学びなおすこと」である。
一旦味わった経験や満足感を捨て去り、そしてまた次のハードルを越えようとする。後ろを振り返えることなく、止まることのない前進が如何に大切なことであるかを、筋トレは教えてくれるのだ。
人生でも同じである。学んだこと、経験したことは大事であり一生の宝物ではあるが、それに執着してはいけない。過去に執着してしまうと時代の流れに乗ることができず、新しい外の世界を見過ごしてしまうのだ。そして往々にして、そこに素晴らしい宝物が眠っている。
トーマス・エジソンの残した言葉を見てみよう。
絶えず変化を求める気持ちと不満こそが、進歩するために最初に必要となるものである
5: 行動を通じて自分を理解する
筋トレを続けている人は、自分に最適なトレーニングをどうやって把握しているのだろうか?
自分の筋肉量に応じた筋トレを行わなくては、筋肉を鍛えることはできない。しかしそのためには「自分の筋肉」というものを正確に把握しなくてはならないだろう。
もちろん、筋トレはこの問題に解決してくれる。筋トレには「重り」と呼ばれるものが存在しており、その重りは定量化されている。あなたがもし40kgの重りを持ち上げることができなかったのなら、あなたは40kg以下相当の筋肉の持ち主だということが判明する。その後に30kgの重りを持ち上げることができたのなら、30kg以上40kg以下相当の筋肉の持ち主だと言うことが分かるだろう。
こうして彼らは、1人では到底把握することができなかった「自分の筋肉」というものを定量化することに成功して、自分に最適なトレーニングを見つけることに成功しているのだ。
これは人生にとっても重要な事だ。
私達人間は自分のことを本当に理解していると思うだろうか? できることなら「理解している」と自信をもって言いたいだろう。
だが真実は残酷であり、私達は自分のことを決して理解してなどいない。自分がどんな時に喜びを感じ、悲しみを感じ、怒り狂うのか、あなたは理解してなどいないだろう。意識上のあなたが、無意識で動いている自分を把握することは難しいのだ。
そうであるならば、できるだけ「外の世界」に働きかけるべきだ。外の環境に働きかけることによって、どの様な時に「自分がどの様になるのか」を把握することができるだろう。海を見たら感動するかもしれない、小説を書く事が楽しいかもしれない、つまらないと思っていた客商売が楽しいと感じるかもしれない。
私たちは外の世界を通じて経験を蓄積することで、自分という人間がどのような人間なのかを理解することができるのだ。自分一人では分からなくても、外の世界はそれを理解する手助けをしてくれる。
外の世界と協力関係を結ぶことで、自分という人間を理解して、自分に最適な行動を取れるようにすることが大事なのだ。
6: 同じ目標を志す仲間 と 仲間を見つける環境
筋トレというのは、最難関のハードルである。筋トレをしている人は、とてつもない精神力や体力を持っているが、それでも時にはその困難な壁を前にへこたれてしまうこともある。
しかし幸いにも、筋トレを行うのに適した「ジム」という環境がこの世には用意されている。ジムには筋トレを行う人が多数集まっており、そこで「仲間」を見つけることが出来るのだ。仲間を見つけた時、先程前にしていた高い壁が足元に位置していることに気付くことだろう。
同じ方向で努力をしており、そして同じ辛さを共有出来る仲間を作る大切さを筋トレは教えてくれる。辛い時に励まし合うことができ、共通の価値観で動ける仲間がいることは、私たちに大きな力を与えてくれるのだ。
人生において、このような仲間を見つけるのは難しい。
仕事などで協力関係にある同僚はいるが、そこには往々にして経済的・名誉的な上下関係が存在している。平等な関係を築けない仲間は、真の仲間というのには程遠い。(もちろん、それはそれで良く働くことはある)
私たちに必要なのは上下関係ではなく、同じ方向に進める仲間だ。楽しい時も苦しい時も離れることなく、一緒に戦線を乗り越えられる仲間なのである。そこに損得を感じさせる無駄な尺度はいらない。
そのような仲間を見つける、もしくは見つけることができる環境に身を投じることが重要なのだ。
7: メンターの重要さ
そうは言っても「筋トレ」は難しい。素人がいくら立派な目標をたて、方法論を考えたとしても、それらが確実に効果的に働くとは限らないのだ。自分で考えることは重要であるが、トレーニングについて熟知するのは、生半可な勉強じゃ足りない。
そんな時、筋トレにはトレーナーという立場の人間が手助けをしてくれる。トレーナーは筋トレについて熟知しており、私達それぞれについて的確なトレーニング方法を提案してくれる。また私達がへこたれないように手助けもしてくれるだろう。
トレーナーの的確なアドバイスにより、私たちは自分の成長にとって「質」の良い道を示してくれるのだ。
人生においてもトレーナーのような「メンター」は重要な役割を持つ。
私たちは人生の中でそれぞれ様々な目標をたて、達成しようと方法論を考えたりする。しかし、自分の力を盲目的に信じることは、より良い道があることを隠してしまうことがあるのだ。自分が進むべき道を的確に示してくれるメンターを探し当て協力してもらうことは、自分が成長するにあたって最も重要なことといっても過言ではないだろう。
忙しい人生、質の悪い行動を取るべきではない。人生のメンターを見つけ、自分にとって「最良の道」を見つけ出すことが大事なのだ。
まとめ
少し長くなってしまったが、まとめておこう。
「筋トレ」は
自分で目標を設定し、日々限界を少し超える努力を行うこと、それを報酬システムによって継続させること、そして常に新しいことを学ぶ大切さを教えてくれるのだ。また、自分という人間を把握し、他人や道具などの「外の世界」と協力関係を結ぶ大切さ
を教えてくれる。
人生において重要なことは、筋トレに全て詰まっているのだ。
AI時代に考えなければいけない「定量化できない」もの
定量化される時代
定量化されない重要なもの
「憎しみ」という定量化されないもの
定量化できない、重要なもの
人間にとって「認識」とは何か? ブラックミラー「虫けら掃討作戦」レビュー
Netfilxのオリジナルコンテンツである「ブラックミラー」というオムニバス式のシリーズの中のシーズン3の第5話「虫けら掃討作戦」を視聴しました。
「ブラックミラー」というシリーズは、現代・近未来において、何かしらのテクノロジーが社会の中に成立した世界を舞台としています。その舞台の中で物語を展開することによって、現在・近未来のテクノロジーが私たちにどのような影響を与えるのか、私たちをどのように変えてしまうのか、ということを訴えかけています。