英語学習の必要性はどこにあるか


 英語学習の必要性については長年議論されている。多くの考えはあるが、ここでは多くの人間にとっては、「コミュニケーションツールとしての英語能力」は必要ではなく、「英語の知識にアクセスする能力」のみが必要であることを書きたい。

 

必要ではない英語能力

 今まで、グローバリズムという時代背景を常にバックにして英語教育は進められてきた。それは「英語を使うことができないと、社会で生き残れない」というような印象を多くの人に抱かせることに成功した。勉強する側は半ば脅迫観念のようなもので勉強をするし(または受験のため)、教育する側は英語を使えるようになることが正義として、自身をもって提供してきた。結果としては、それが英語能力の向上という意味で成功したとは言い難いけども、「英語が必要である」という精神性を身に着けさせたという意味では、大きな効果はあったはずだ。

 そして英語が必要であるという考えを身に付けさせることに成功した上に、それは「コミュニケーションツール」として必要なのだ、という印象を持たせることにも成功した。某予備校の英語教師などは「英語は言葉なんだ。誰でもできる」と言っている。この文章自体は全くその通りなのだけれども、「言葉」というワードを使うことによって、なんとなく英語と言うのは「会話を行うためのもの」という印象を抱かせる。確かに英語は言葉であって、本来はコミュニケーションを行うための道具である。だから日本人が英語を「話せないこと」に関して物凄く揶揄されたりするし、自己否定にまで陥っているケースが多くない。日本の受験勉強のように、入試問題を解くために勉強した英語などは、この目的にそぐわない英語能力しか養えない。TOIECで800点を取ることができても、日常会話すらできない人はおそらく沢山いる。

 だけど英語圏で生活していない日本人が、「コミュニケーションツール」としての英語を学ぶ必要性がどれほどあるのか疑問だ。外資系企業など、外国人が常に身近に存在するような環境にいない限り、英語でコミュニケーションを取らなければならない状況には中々なるものではない。むしろ、そのようなケースがないからこそ、日本人の「コミュニケーションとしての英語」はなかなか培われない。

 だから英語をそのように捉えるのはもう止めても良い。「日本人は英語を話せない」と揶揄されようが、それは「必要ないから」と自身を持って言っていい。それは日本という国の特殊性でもあるし、そこに変な自己否定を入れる必要はない。コミュニケーションツールとしての英語は放棄しても良い。

 もちろん、それは例えば教育のような舞台で考えられる、英語教育においての話だ。今後英語圏で活躍したければコミュニケーション英語は必要だし、よりグローバルで活躍したいのであれば、そうした能力も養わければいけない。ここで書いてるのは、あくまで大多数の日本人における英語能力についてである。ローカルで生活する普通の日本人にはそのような能力は別に必要ではない。だから英語に対して変な強迫観念を抱く必要はない。

 

必要な英語能力

 だけど強調して書いておきたいのは、コミュニケーションとしての英語能力は必要ではないが、「英語にアクセスする能力は必要である」ということだ。英語圏に住んでいなければ外国人とコミュニケートすることはないが、インターネットと接する私たちは常に英語で書かれた知識にアクセスすることができる。そしてそのようなルートがあるということは、英語知識にアクセスできるかできないかで、両者には大きな知識格差が起きるということだ。

 英語知識にアクセスすることができなければ、インターネット上で公開されている多くの記事や論文、ビデオなどの有用な情報を手に入れることができない。大学講座など、様々な有用なコンテンツが英語で公開されてることを考えると、これは想像以上に重大な問題であることを意識した方が良い。

 インターネット上にどのくらい英語が、そして日本語があるか大体理解できるグラフがある。このグラフを見ると25.3%ほどは英語ユーザであることが分かる。そして日本語ユーザはたったの3.0%である。日本語しか読めない・聞けないのであれば、たったの3%の知識にしかアクセスできないことになるのだ。また、中国語やアラビア語の成長率もなかなか興味深いので、今後は英語に加えて中国語に対するアクセス能力も求められるかもしれない。

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ウェブ上の言語ごとのユーザ数(2017年6月30日現在)

 Googleの使命は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」であった。しかしそれは「可能」にしてくれただけであり、実際に実行できるようになるのは、個人に任されていることを忘れてはいけない。「アクセス可能」になったということと、それを実際に行うかどうかとは、全く別物なのだ。
 
 もしその目的の英語を学習することすら鬱陶しいならば、機械翻訳の精度がさらに向上することを期待しておこう。そうなれば多くの日本人にとっては、とうとう英語学習は必要なくなる。私たちの目的は多くの知識に実際にアクセスすることであり、英語を使う事自体が目的ではないからだ。機械翻訳がそれを格段に容易にしてくれる。

 

参考:

www.internetworldstats.com