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現実通信社

考えすぎるくらいが楽しい

人間にとって「認識」とは何か?  ブラックミラー「虫けら掃討作戦」レビュー

 

 Netfilxのオリジナルコンテンツである「ブラックミラー」というオムニバス式のシリーズの中のシーズン3の第5話「虫けら掃討作戦」を視聴しました。

 

 

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 「ブラックミラー」というシリーズは、現代・近未来において、何かしらのテクノロジーが社会の中に成立した世界を舞台としています。その舞台の中で物語を展開することによって、現在・近未来のテクノロジーが私たちにどのような影響を与えるのか、私たちをどのように変えてしまうのか、ということを訴えかけています。

 
 では「虫けら掃討作戦」で描かれている世界は、どの様なテクノロジーがベースとなっている世界なのでしょうか?
 
 それは「人間の認識操作が可能になった世界」です。
 
 人間にとって最も重要である「認識」という機能を、人為的に操作できるようになった世界、ということです。通常、認識は人によって操作されることはなく自然に作られるものですが、「虫けら」の世界ではそれが可能になっているのです。しかし、「人の認識を操作できる世界」というのはどの様な世界なのでしょうか? イマイチぴんと来ないと思うので、そもそも「認識」とは何なのか、そこから始めたいと思います。
 
 

「認識」とは何か?

 
 人間というのは脳や身体など、様々な生物的部品を使って、外の世界を「知覚」し、それをベースに「認識」しています。知覚とは光や音、感触などを目や耳、肌などを通じて感じることです。そして、その知覚をベースに認識を作り上げ、その認識を元にあらゆる「意識」を作り上げているのです。例えば、私は今カフェの椅子に座ってパソコンでタイピングしていますが、これは「椅子とは座るもの」「パソコンで文字を打つことができる」などの「認識」を持つことによって生まれているものです。
 
 つまり私達の「認識」が変わることがあるとしたら、私達の世界への反応の仕方というものは変わってしまうのです。先程の例で言うならば、「ソファは座るべきものである」という認識の代わりに「ソファは足置きであり」「テーブルは座るべきもの」という認識がアレば、私はきっとテーブルに座ってパソコンをタイピングしているでしょう。
 
 今ソファに座って机にパソコンをおいてタイピングしてるというのは、何もそれら物体自体がそのような制約を課してるわけではありません。私達が「経験上」そのように「認識」してるということだけで生まれることなのです。「ソファに座る」というのは、この世界において当然のことでは全然ないのです。
 
 この認識というものは、経験的に作り上げられてきたり、生物的な傾向から生まれています。周りの人がソファに座っている、という経験や、「ソファの高さは座る場所に適してる」などです。私たちはこの「認識」を持って初めて、この世界で生きていけるのです。
 
 

「虫けら掃討作戦」の世界

 では今回の「虫けら」の世界を改めて考えてみましょう。「人間の認識」を人為的に変えることができる世界、つまり、先程まで説明した「認識」の機能を弄ることができる、ということです。
 
 「認識を人為的に変更する」とは、先程の例からも分かる通り、その人が見る世界というものを他の人が変えることにほかなりません。「ソファに座る」が当たり前の認識の世界から、「ソファは足置きである」が当たり前の世界に変更できるのです。
 これは一見すると、とてつもなく恐ろしい世界に見え、まさにディストピアであるように感じます。
 
 私たちは今の認識を持っているからこそ人間であり、世界を充分に楽しむことができるのだ。人に変えられた世界など嘘の世界であり、本当の幸せ感じることなどできない。そう感じるのです。
 
 しかし実際のところ、本当の世界から偽の世界に移ることは、そう悪いことだけでも無いはずです。
 
 人間は生きていく上で、幸せな状況と不幸な状況のどちらも味わっています。愛する人と一緒にいるという幸せな時がある一方で、自分の目の前で人が死んでしまうという不幸な時があるかもしれません。人生に幸せと不幸は必ず共存しています。
 その内の不幸を、認識を変えることによって消し去ることができるようになればどうでしょうか? 確かに世界の本当の姿を見ることは出来なくなりますが、その人にとって本来は不幸な事実であったものが、幸福なものに変わるのです。現実の世界は幸せと不幸が共存している、偽の世界は幸せだけが存在している。ならば偽の世界のほうが良いのではないでしょうか。
 
 「虫けら掃討作戦」はそのような世界を描いています。人間の認識を変えて、辛い現実を幸福に変えてあげることは、果たして良いことなのかどうか。この作品は物語を通して、丁寧に私たちに説いてくれます。ぜひ視聴を通して、私達の認識と言うものを改めて「認識」するべきだと実感します。
 

余談

 「認識」においての個人的な意見を少し書いておきます。
 私は「不幸」があるからこそ「幸せ」があると思っています。どちらも相対的な概念であり、一方がなければもう一方も存在し得ないと思うのです。つまり、認識によって不幸が消された世界は、本当の「幸せ」を知ることすらできない。それが私の意見です。認識を変えることによって、「臭いものにフタをする」というのは、はっきりと害である、と思います。
 
 しかし「虫けら」の物語は少し違った状況ですので、上述した意見はこの物語に対しての意見ではありません。この物語に対してどの様な意見を持つかは、また別の話になってきます。