英語学習の必要性はどこにあるか


 英語学習の必要性については長年議論されている。多くの考えはあるが、ここでは多くの人間にとっては、「コミュニケーションツールとしての英語能力」は必要ではなく、「英語の知識にアクセスする能力」のみが必要であることを書きたい。

 

必要ではない英語能力

 今まで、グローバリズムという時代背景を常にバックにして英語教育は進められてきた。それは「英語を使うことができないと、社会で生き残れない」というような印象を多くの人に抱かせることに成功した。勉強する側は半ば脅迫観念のようなもので勉強をするし(または受験のため)、教育する側は英語を使えるようになることが正義として、自身をもって提供してきた。結果としては、それが英語能力の向上という意味で成功したとは言い難いけども、「英語が必要である」という精神性を身に着けさせたという意味では、大きな効果はあったはずだ。

 そして英語が必要であるという考えを身に付けさせることに成功した上に、それは「コミュニケーションツール」として必要なのだ、という印象を持たせることにも成功した。某予備校の英語教師などは「英語は言葉なんだ。誰でもできる」と言っている。この文章自体は全くその通りなのだけれども、「言葉」というワードを使うことによって、なんとなく英語と言うのは「会話を行うためのもの」という印象を抱かせる。確かに英語は言葉であって、本来はコミュニケーションを行うための道具である。だから日本人が英語を「話せないこと」に関して物凄く揶揄されたりするし、自己否定にまで陥っているケースが多くない。日本の受験勉強のように、入試問題を解くために勉強した英語などは、この目的にそぐわない英語能力しか養えない。TOIECで800点を取ることができても、日常会話すらできない人はおそらく沢山いる。

 だけど英語圏で生活していない日本人が、「コミュニケーションツール」としての英語を学ぶ必要性がどれほどあるのか疑問だ。外資系企業など、外国人が常に身近に存在するような環境にいない限り、英語でコミュニケーションを取らなければならない状況には中々なるものではない。むしろ、そのようなケースがないからこそ、日本人の「コミュニケーションとしての英語」はなかなか培われない。

 だから英語をそのように捉えるのはもう止めても良い。「日本人は英語を話せない」と揶揄されようが、それは「必要ないから」と自身を持って言っていい。それは日本という国の特殊性でもあるし、そこに変な自己否定を入れる必要はない。コミュニケーションツールとしての英語は放棄しても良い。

 もちろん、それは例えば教育のような舞台で考えられる、英語教育においての話だ。今後英語圏で活躍したければコミュニケーション英語は必要だし、よりグローバルで活躍したいのであれば、そうした能力も養わければいけない。ここで書いてるのは、あくまで大多数の日本人における英語能力についてである。ローカルで生活する普通の日本人にはそのような能力は別に必要ではない。だから英語に対して変な強迫観念を抱く必要はない。

 

必要な英語能力

 だけど強調して書いておきたいのは、コミュニケーションとしての英語能力は必要ではないが、「英語にアクセスする能力は必要である」ということだ。英語圏に住んでいなければ外国人とコミュニケートすることはないが、インターネットと接する私たちは常に英語で書かれた知識にアクセスすることができる。そしてそのようなルートがあるということは、英語知識にアクセスできるかできないかで、両者には大きな知識格差が起きるということだ。

 英語知識にアクセスすることができなければ、インターネット上で公開されている多くの記事や論文、ビデオなどの有用な情報を手に入れることができない。大学講座など、様々な有用なコンテンツが英語で公開されてることを考えると、これは想像以上に重大な問題であることを意識した方が良い。

 インターネット上にどのくらい英語が、そして日本語があるか大体理解できるグラフがある。このグラフを見ると25.3%ほどは英語ユーザであることが分かる。そして日本語ユーザはたったの3.0%である。日本語しか読めない・聞けないのであれば、たったの3%の知識にしかアクセスできないことになるのだ。また、中国語やアラビア語の成長率もなかなか興味深いので、今後は英語に加えて中国語に対するアクセス能力も求められるかもしれない。

f:id:hirohuntexp:20171007160744p:plain

ウェブ上の言語ごとのユーザ数(2017年6月30日現在)

 Googleの使命は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」であった。しかしそれは「可能」にしてくれただけであり、実際に実行できるようになるのは、個人に任されていることを忘れてはいけない。「アクセス可能」になったということと、それを実際に行うかどうかとは、全く別物なのだ。
 
 もしその目的の英語を学習することすら鬱陶しいならば、機械翻訳の精度がさらに向上することを期待しておこう。そうなれば多くの日本人にとっては、とうとう英語学習は必要なくなる。私たちの目的は多くの知識に実際にアクセスすることであり、英語を使う事自体が目的ではないからだ。機械翻訳がそれを格段に容易にしてくれる。

 

参考:

www.internetworldstats.com

現代は決して悪い時代ではない 「繁栄」 by マット・リドレー

 本書が終始説いていることは「現代は決して悪い時代ではない」ということである。
 
 毎日流れてくるニュースや、本屋にいけばどこまでも続くように並んでいる現代悲観論に反して、様々な事実を合わせて考えれば現代は素晴らしいものである、という合理的楽観論を背に宿して論を勧めている。
 
 「合理的」と言うからには、様々な現実面と顔を合わせなければならない。現実から離れて抽象的に説いていくのではなく、様々な現実の苦難を乗り越えてきた人間の歴史を説いていきながら、現代と言うものを考えなかればならない。
筆者は人類史という壮大な物語を背景に、現代を解き明かしているのだ。
 
 筆者も少し言及しているが、この人類史から現代を解き明かすというプロセスが、これほどまでに意義あるものとなるには、ある特徴があるからである。それは「人間の本質は今も昔も変わっていない」ということである。
つまり広く深い人類史を俯瞰することが、現代の私たちにとってとてつもない意義あるものになる理由としては、そのプレイヤーが変わっていない、ということにあるのだ。プレイヤーが変わっていないのだとすれば、彼らの歴史を捉えることで、現代社会を客観的に捉えることができるようになるからだ。
 
 人類史というとあまりにも想像を絶する世界観だが、そのプレイヤーは私たちと全く同じなのだ、ということを念頭に入れて本書を読むと、その恩恵を最大限に味わうことができるのではないかと個人的には思う。
 
 
 本書は「人類の繁栄」をテーマに挙げて、「人間が自らの生き方をこれほど激しく変え続けられる原因はどこにあるのだろう?」という疑問を説くことを目的にしている。
 
 本書の冒頭から書いている通り、筆者はその理由を人間の「交換と専門化」に与えている。
 人間は自分ひとりの中で「培うことのできない能力」を扱うことができることによって、ここまで繁栄してきたのだ。私たちはパソコンがどのように動いているか、作られているかを厳密には知らない。なんとなく分かっていても、材料さえあれば自分で全てを作れるかと問われれば、おそらく作れる人間などいないだろう。仮に作れたとしても、その材料を自分で集めてくるには途方もない時間がかかるし、可能かどうかさえ定かではない。
 しかし私たちはパソコンを使うことができる。資源や理論や物流を考えることなく、私はこうして文章を打つことができる。それらのことを考えることなく、全く新しい事に自分の時間を注ぐことができるのだ。世界の多くの人々が自分にできることに専念し、それを大規模に交換することによって、余計なことを考えずにイノベーションを起こすことができるのだ。検索エンジンSNSを考案するのに、パソコンの資源を考える必要はない。
 
 筆者が一番良いたいことはこれだけである。そして残りの部分は、その「交換と専門化」を作るためにはどうすれば良いか、ということになる。
 
 「交換と専門化」が進むにはその土台が必要になるのだ。私はその土台として「人間が交換を行えるような社会を築くこと」そして「専門化することが利益になる経済を作ること」の2つが本書で挙げられていると感じた。
 他人と交流をできること、他人を出し抜くことが個人の利益にならないようにすることが、人々が「交換と専門化」に秀でるようになるための必要条件なのだ。この話は「国家はなぜ衰退するのか」を参考にすると上手く繋がるかもしれない。
 
 個人的に感銘をうけたのは、「情報のモノ化」である。人間は自分で考えたことなどを「モノ化」することができる。つまり頭の中にある抽象的なものを、現実世界に具象化することができるということだ。現実世界に具象化することができれば、他者と交換することが非常に容易になる。また現実世界に存在するということは、物理的な3次元空間を使い、「移動」という概念を身に宿すことができる。そうすると、人一人の交換可能範囲を超えて、想像もつかないような経緯を辿り、間接的に他者と交換ができるようになる。個人的には、この「情報のモノ化」が「交換と専門化」に一番貢献したと思う。もちろん、文字や言語もこの一種である。
 
 そして現代はインターネットという、歴史上一番の交換能力を持っている土台を手に入れた。そしてこれは権威的ではなく、分散的に成り立っているものだ。トランプ政権のアメリカを始め、国家という単位で保護的になろうとも、テクノロジーが可能にした「交換可能な範囲」が狭まることは決してないと思う。その土台がある限り、またはその動機がなくならない限り、現代社会の繁栄は止められないものであると思う。
 
 また、本書は「狩猟採集と農耕」「信頼と市場」「都市と交易」「エネルギー」「発明」「悲観主義への反論」というテーマで各章を割いている。経済史的な語り口調が多いので少々読むのに飽きてくる部分もあるが、常に「交換と専門化」という視点で読んでいけば、必要なエッセンスは抽出し易いのではないかと思う。
 

 

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

筋トレが「人生に必要なこと」の全てを教えてくれる

 あなたは「筋トレ」をしているだろうか? 

f:id:hirohuntexp:20170106190649j:plain

 もししていないのなら、早く始めたほうが良い。致命的な損をしているからだ。

 身体を鍛えると、運動不足を解消できるとか、頭脳が明晰になるとか、筋トレのメリットを語ろうと思えばいくらでも出てくるだろう。しかし、それらのメリットはもう誰もが知っている事実であり、少し退屈ですらある。それにそんなことを今更言われたところできっと心には響かないだろう。

 そういう訳で、今回は全く別の観点から筋トレの素晴らしさを考察したいと思う。いや、それは素晴らしいという言葉でも言い足りないくらい重要な事を私たちに説いてくれる。それは次の誰もが抱いている重大な問いへの答えだ。

「人生において大切なことは何か?」

 その事を理解するために、「筋トレ」に取り組んでいる人が持っている性質を洗い出してみよう。そして、それらがどのように人生に関わってくるのかを並行して見ることによって、「筋トレ」と「人生」の意外な共通点を理解できるはずだ。

 

1: 自分で目標を立てる

 「筋トレ」を行っている人は、自分がどの様な目的を持ってトレーニングをしているかを理解している。フィットネスやダイエットかもしれないし、とにかく筋肉を肥大化させようとしてるのかもしれない。しかし彼ら彼女らはただ単にトレーニングをしているわけではなく、自分の目的の身体を実現するためにトレーニングを行っているのだ。

 これは一見当たり前の事のように思えるが、とても重要な事である。

 痩せる目的と、筋肉を肥大化させる目的とは全然別の目的である。しかしそれにもかかわらず、彼らは同じ筋トレを行う。「筋トレ」は「自分のなりたい姿」を誰に押し付けられることなく、自分で決定して、日々トレーニングを行うものなのだ。なりたい姿を自分で決定しない限り、そこにトレーニングという手段は生まれてはこない。

 人生はどうだろうか?

 学校のテストで高得点を取る、会社で昇進する、はたまた「金儲け」をする。これらの目的は本当にその人自身の「目的」なのだろうか?

 いや、これらは他人や社会の通説が強引に設定しているものにすぎない。そこに自分の意思を介した目的というは存在せず、なんとなく人生を過ごす結果に陥っている。

 どうしてそれぞれ違う人間なのに、同じ目的を目指さないといけないのだろうか?

 「筋トレ」はそれぞれの体質・体型・理想をベースに目標を自分で決定する。

 「人生」もそれぞれの個性・理想をベースにした目標を自分で設定すべきだろう。自分を導く先は、自分で決定するべきのだ。

  米ゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者ジャック・ウェルチの言葉を載せておこう。

Control Your Own Destiny or Someone Else Will(自らの運命をコントロールせよ。さもなければ、他人にコントロールされることになるだろう)

 

2: 限界を少し超える

 筋トレを行うからには、もちろん筋肉を鍛えなければならない。ではどのようにしたら鍛えることができるのだろうか? 筋トレをしている人ならばすぐに答えが出てくるだろう。それは、

 「限界を少し超えること」である

 重りを持ち上げている最中に、自分の筋肉が悲鳴をあげ始める。そう、それは筋肉が限界を示している印だ。筋トレに慣れていない人ならば、ここでトレーニングをさっさとやめて、SNSに「いい汗かいた」などど投稿し始めることだろう。だが日常的に筋トレをしている人は違う。筋肉が悲鳴という産声をあげた時、それはトレーニングを止めるときではなく、トレーニング開始の合図なのである。

 筋肉が限界を迎えたところで「もう2回」最後の最後の力を振り絞って重りを持ちあげる。その「限界を少し超えたトレーニング」が筋肉にとって最高の栄養剤となるのだ。日常的に筋トレをしている人はこのことをよく知っており、日夜実践している。

 人生に置き換えたらどうだろうか?

 人生において自分の限界を思い知らされることは多々あるだろう。それは人間関係かも知れないし、能力的な問題かもしれない。多くの人間はこの問題にぶつかった時、手っ取り早い改善方法を探そうとする。限界を超える裏技が存在すると信じているのだ。しかし、そんな幻想は存在しない。結局、事実を思い知らされ自分を成長させることができないでいるのだ。

 「限界を少し超える」は成長するために必須な処方箋だ。簡単に自分の限界を拡大する方法など、この世にはありそうもない。ならば日頃の生活で「限界を少しずつ拡大していく」ことで、塵も積もれば山となる、あなたの限界は当初と比べ物にならないほど広がるのだ。

 イチローも次のような言葉を残している。

 自分の限界よりも、もう少し頑張ってほしい

 

3: 報酬による継続

 筋トレの効果を存分に発揮するためには「継続する」ことが欠かせない。しかし言葉で言うのが簡単だが、忙しい現代人にとって、定期的に同じことを継続するのは容易なことではない。

 筋トレをしている人はどうやってこの難題をクリアしているのだろうか? 何故彼らは、生活の中にトレーニングを組み込むことに成功しているのだろうか?

 それは筋トレというものが持っている性質の一つのおかげなのだ。

 「目に見える変化」である。

 上述したように、筋トレをする際、人々はそれぞれの目標を立てる。違う目的なのだから、皆別々の方法をとって目標に向かっていけば良いと思うかもしれない。いや、違う。「目標を達成する」という目標は皆平等に持っていることを忘れてはいけない。

 「目標を達成する」という目標を達成するにあたって、筋トレは「目に見える変化」という報酬をもって支援してくれるのだ。いくら立派な目標をたてたところで、日々何も変化することがないのならば、どうやって継続したら良いというのか。 筋肉は私達の努力をちゃんと見てくれており、育ててくれたお礼をしっかりと返してくれる。

 人生においても同じことが言えるだろう。

 人生の中で様々な目標を立てる人がいるが、「その目標を達成する方法」という視点を欠いてしまう人が多い。人それぞれの目標の中でも、人が達成するという「目標」であることには変わりない。達成するための方法論をしっかりと吟味するべきなのだ。

 そして筋トレは「目に見える変化」というヒントを与えてくれる。「目に見える」とまでいかなくても良いかもしれないが、自分の日頃の努力しだいで「実感できるレベルの報酬」を組み込むことが大事なのだ。

 自分の努力に、もっと優しい目を向けてあげるべきだ。

 

4: アンラーニング

 筋トレをしている人なら誰もが体験していることがある。

 トレーニングを終えた後、疲れた身体をのそのそと動かしながらロッカーに向かう。そして、そこにある鏡をじっくりと覗き込み、自分の成長した筋肉にうっとりするのだ。身を削るようなトレーニングを今日も乗り越えることができた、という満足感を味わい、さらに自分の理想に近づいてることを目で確認するのだ。なんという至福の時間だろうか。

 だがその至福の時間もすぐに終わりを遂げてしまう。次の日の朝、失望を隠せない事実に目の当たりするのだ。

 昨日あれだけ大きくなっていた筋肉がしぼんでしまっているではないか・・・。

 筋トレ直後は筋肉が肥大化するが、その肥大化は一時的なものにすぎない。筋トレをしている人なら周知の事実であるが、それでも何と辛いできことなのだろう。筋トレの神様はなんという残酷な仕打ちを施すのだろうか。

 しかしココからが重要だ。

 彼らはそれでも負けじと筋トレを続けるのである。どんなに次の日に失望することを分かっていようとも、それでも新しい領域に足を踏み入れ続ける。過去の結果や経験に惑わされず、常に未来に期待を見据えているのだ。

 これは「アンラーニング」という考え方に近い。

 「アンラーニング」とは、「一旦学んだ知識や価値観を意識的に捨て去って、新たに学びなおすこと」である。

 一旦味わった経験や満足感を捨て去り、そしてまた次のハードルを越えようとする。後ろを振り返えることなく、止まることのない前進が如何に大切なことであるかを、筋トレは教えてくれるのだ。

 人生でも同じである。学んだこと、経験したことは大事であり一生の宝物ではあるが、それに執着してはいけない。過去に執着してしまうと時代の流れに乗ることができず、新しい外の世界を見過ごしてしまうのだ。そして往々にして、そこに素晴らしい宝物が眠っている。

 トーマス・エジソンの残した言葉を見てみよう。

絶えず変化を求める気持ちと不満こそが、進歩するために最初に必要となるものである

 

5: 行動を通じて自分を理解する

 筋トレを続けている人は、自分に最適なトレーニングをどうやって把握しているのだろうか?

 自分の筋肉量に応じた筋トレを行わなくては、筋肉を鍛えることはできない。しかしそのためには「自分の筋肉」というものを正確に把握しなくてはならないだろう。

 もちろん、筋トレはこの問題に解決してくれる。筋トレには「重り」と呼ばれるものが存在しており、その重りは定量化されている。あなたがもし40kgの重りを持ち上げることができなかったのなら、あなたは40kg以下相当の筋肉の持ち主だということが判明する。その後に30kgの重りを持ち上げることができたのなら、30kg以上40kg以下相当の筋肉の持ち主だと言うことが分かるだろう。

 こうして彼らは、1人では到底把握することができなかった「自分の筋肉」というものを定量化することに成功して、自分に最適なトレーニングを見つけることに成功しているのだ。

 これは人生にとっても重要な事だ。

 私達人間は自分のことを本当に理解していると思うだろうか? できることなら「理解している」と自信をもって言いたいだろう。

 だが真実は残酷であり、私達は自分のことを決して理解してなどいない。自分がどんな時に喜びを感じ、悲しみを感じ、怒り狂うのか、あなたは理解してなどいないだろう。意識上のあなたが、無意識で動いている自分を把握することは難しいのだ。

 そうであるならば、できるだけ「外の世界」に働きかけるべきだ。外の環境に働きかけることによって、どの様な時に「自分がどの様になるのか」を把握することができるだろう。海を見たら感動するかもしれない、小説を書く事が楽しいかもしれない、つまらないと思っていた客商売が楽しいと感じるかもしれない。

 私たちは外の世界を通じて経験を蓄積することで、自分という人間がどのような人間なのかを理解することができるのだ。自分一人では分からなくても、外の世界はそれを理解する手助けをしてくれる。

 外の世界と協力関係を結ぶことで、自分という人間を理解して、自分に最適な行動を取れるようにすることが大事なのだ。

 

6:  同じ目標を志す仲間 と 仲間を見つける環境

 筋トレというのは、最難関のハードルである。筋トレをしている人は、とてつもない精神力や体力を持っているが、それでも時にはその困難な壁を前にへこたれてしまうこともある。

 しかし幸いにも、筋トレを行うのに適した「ジム」という環境がこの世には用意されている。ジムには筋トレを行う人が多数集まっており、そこで「仲間」を見つけることが出来るのだ。仲間を見つけた時、先程前にしていた高い壁が足元に位置していることに気付くことだろう。

 同じ方向で努力をしており、そして同じ辛さを共有出来る仲間を作る大切さを筋トレは教えてくれる。辛い時に励まし合うことができ、共通の価値観で動ける仲間がいることは、私たちに大きな力を与えてくれるのだ。

 人生において、このような仲間を見つけるのは難しい。

 仕事などで協力関係にある同僚はいるが、そこには往々にして経済的・名誉的な上下関係が存在している。平等な関係を築けない仲間は、真の仲間というのには程遠い。(もちろん、それはそれで良く働くことはある)

 私たちに必要なのは上下関係ではなく、同じ方向に進める仲間だ。楽しい時も苦しい時も離れることなく、一緒に戦線を乗り越えられる仲間なのである。そこに損得を感じさせる無駄な尺度はいらない。

 そのような仲間を見つける、もしくは見つけることができる環境に身を投じることが重要なのだ。

 

7:  メンターの重要さ

 そうは言っても「筋トレ」は難しい。素人がいくら立派な目標をたて、方法論を考えたとしても、それらが確実に効果的に働くとは限らないのだ。自分で考えることは重要であるが、トレーニングについて熟知するのは、生半可な勉強じゃ足りない。

 そんな時、筋トレにはトレーナーという立場の人間が手助けをしてくれる。トレーナーは筋トレについて熟知しており、私達それぞれについて的確なトレーニング方法を提案してくれる。また私達がへこたれないように手助けもしてくれるだろう。

 トレーナーの的確なアドバイスにより、私たちは自分の成長にとって「質」の良い道を示してくれるのだ。

 人生においてもトレーナーのような「メンター」は重要な役割を持つ。

 私たちは人生の中でそれぞれ様々な目標をたて、達成しようと方法論を考えたりする。しかし、自分の力を盲目的に信じることは、より良い道があることを隠してしまうことがあるのだ。自分が進むべき道を的確に示してくれるメンターを探し当て協力してもらうことは、自分が成長するにあたって最も重要なことといっても過言ではないだろう。

 忙しい人生、質の悪い行動を取るべきではない。人生のメンターを見つけ、自分にとって「最良の道」を見つけ出すことが大事なのだ。

 

まとめ

 少し長くなってしまったが、まとめておこう。

 「筋トレ」は

 自分で目標を設定し、日々限界を少し超える努力を行うこと、それを報酬システムによって継続させること、そして常に新しいことを学ぶ大切さを教えてくれるのだ。また、自分という人間を把握し、他人や道具などの「外の世界」と協力関係を結ぶ大切さ

を教えてくれる。

 人生において重要なことは、筋トレに全て詰まっているのだ。

AI時代に考えなければいけない「定量化できない」もの

 
 この記事はNetflixオリジナルのブラックミラーのシーズン3,「殺意の追跡」という映画のレビュー・感想です。
 
 「ブラックミラー」というシリーズは、現代・近未来において、何かしらのテクノロジーが社会の中に成立した世界を舞台としています。その舞台の中で物語を展開することによって、現在・近未来のテクノロジーが私たちにどのような影響を与えるのか、私たちをどのように変えてしまうのか、ということを訴えかけています。

f:id:hirohuntexp:20161230212705j:plain

 

定量化される時代

 近年トレンドとなっている「ビッグデータ」という言葉があります。最近は少し落ち着いてきたように思えますが、それはその概念が廃れたわけではなく、逆に根付いたからに他なりません。データという概念が私達の社会にとって、とても根深いものになってきたのです。
 
 「データ」という言葉を聞いた時連想するもの何でしょうか? PCやスマホが私たちの生活の必需品となった現代においては、LINEの履歴とか、撮った画像とか、SNSに投稿されているフィードだったりするかもしれません。確かにそれらは情報技術で使われるデータでできていますので、私たちに一番身近な存在だと言えます。
 
 しかしデータという言葉がもたらす一番重要な概念はは「定量化」ということです。
 
 定量化とは「ある対象を定義された単位で量化すること」です。
 
 例えば、目の前にダンボールが5個あり、それぞれにりんごが10個ずつ入ってるのを想像してみたください。ダンボールにぎっしりと詰まったリンゴと、その同じダンボールがいくつかある状態です。
 
 はい、「個」というのが「定義された単位」であり「5」というのが「量化」です。「個」という単位と量を定義することで、「りんごがどの位あるのか」という問いに「あいまいさ」をなくして答えることができるようになります。もし「個」という単位がないと 「リンゴがどの位あるのか」という問いに、「あいまいさ」を残したままの答えしか答えられなくなってしまいます。
 
 「定量化」というのは、このように「あいまいさ」をなくして、的確に物事を考えられるようにする方法論です。近年のデータブームは、様々な曖昧な部分を定量化することによって的確な答えを求めるようにしているのです。
 

定量化されない重要なもの

 しかし、いくらブームが起きたからといって、また技術が進歩したからといって、全てのものが定量化できているわけではありません。
 
 「人の心」という曖昧さなくして語れないようなものは、未だに定量化することに成功していないのです。もし定量化が成功したとしたら、人間をデータで再現できるということになり、完璧なAIができることでしょう。だけど、まだまだその道程は遠いように感じます。
 
 ですが「人の心」というのは言わずもがな、とても重要なものです。「人の心」は定量化できていませんが、古くから多くの人が試行錯誤をして考えています。それは思想や哲学という形であったり、実際に行動の跡である歴史というもので考えられたりしています。定量化できないからと言って、思考対象にならない、というわけではありません。
 

「憎しみ」という定量化されないもの

 この「殺意の追跡」では、その定量化できない「人の心」、その中でも「憎しみ」というものを扱っています。
 
 近年の情報社会は定量化できる部分に注目がいきがちです。SNSでの人々の投稿や、GPSでの行動履歴、購買履歴など様々なものが定量化され活用されています。しかし、その一方で定量化されない部分に関して疎かになっているのではないでしょうか? 定量化できるものばかりに目が行き、その背景で動いている「定量化できないもの」という存在をついつい忘れてしまってはいないでしょうか?
 
 「憎しみ」というのはもちろん、目に見えるものではないですし、何か単位があって、数えられるようなものではありません。「あなたの憎しみは140ヘイトね」などという言い方はできないのです。この映画ではこの「憎しみ」というものをある意味「定量化」した世界を描いています。どのように定量化しているのかは、ぜひ映画を見て確認してみてください。その手法に脱帽させられます。
 

定量化できない、重要なもの

 この映画を見た後に思うことは、「目に見えないもの」「定量化できないもの」への関心を取り戻そう、ということです。考えやすいものばかりを考えることによって、もっと重要なものへの関心が薄くなってしまっていることに気付くべきなのです。
 
 今後、技術の発展に伴って、「定量化」できる部分というものは広がっていくことでしょう。それでも「人の心」など、そうできない部分は残されていくはずです。AIの普及によって定量化作業が効率化される近未来、私達人間が最も貢献できる部分はココです。
 
 定量化されるものは全て機械・AIに任せてしまえばよいのです。その分空きができた人々の思考力・認知体力を「定量化できないもの」に集中させることができるようになります。もちろん定量化をベースにした方法論を疎かにしていいわけではありませんが、今後はそれ以外の部分も同じくらい重要であるということです。
 
 人間にしか分からない「人間」と言うもの、曖昧さを持っているからこそ重要である「人の心」を、私たちは今以上に関心を持たなければいけません。

人間にとって「認識」とは何か?  ブラックミラー「虫けら掃討作戦」レビュー

 

 Netfilxのオリジナルコンテンツである「ブラックミラー」というオムニバス式のシリーズの中のシーズン3の第5話「虫けら掃討作戦」を視聴しました。

 

 

f:id:hirohuntexp:20161230212705j:plain

 

 「ブラックミラー」というシリーズは、現代・近未来において、何かしらのテクノロジーが社会の中に成立した世界を舞台としています。その舞台の中で物語を展開することによって、現在・近未来のテクノロジーが私たちにどのような影響を与えるのか、私たちをどのように変えてしまうのか、ということを訴えかけています。

 
 では「虫けら掃討作戦」で描かれている世界は、どの様なテクノロジーがベースとなっている世界なのでしょうか?
 
 それは「人間の認識操作が可能になった世界」です。
 
 人間にとって最も重要である「認識」という機能を、人為的に操作できるようになった世界、ということです。通常、認識は人によって操作されることはなく自然に作られるものですが、「虫けら」の世界ではそれが可能になっているのです。しかし、「人の認識を操作できる世界」というのはどの様な世界なのでしょうか? イマイチぴんと来ないと思うので、そもそも「認識」とは何なのか、そこから始めたいと思います。
 
 

「認識」とは何か?

 
 人間というのは脳や身体など、様々な生物的部品を使って、外の世界を「知覚」し、それをベースに「認識」しています。知覚とは光や音、感触などを目や耳、肌などを通じて感じることです。そして、その知覚をベースに認識を作り上げ、その認識を元にあらゆる「意識」を作り上げているのです。例えば、私は今カフェの椅子に座ってパソコンでタイピングしていますが、これは「椅子とは座るもの」「パソコンで文字を打つことができる」などの「認識」を持つことによって生まれているものです。
 
 つまり私達の「認識」が変わることがあるとしたら、私達の世界への反応の仕方というものは変わってしまうのです。先程の例で言うならば、「ソファは座るべきものである」という認識の代わりに「ソファは足置きであり」「テーブルは座るべきもの」という認識がアレば、私はきっとテーブルに座ってパソコンをタイピングしているでしょう。
 
 今ソファに座って机にパソコンをおいてタイピングしてるというのは、何もそれら物体自体がそのような制約を課してるわけではありません。私達が「経験上」そのように「認識」してるということだけで生まれることなのです。「ソファに座る」というのは、この世界において当然のことでは全然ないのです。
 
 この認識というものは、経験的に作り上げられてきたり、生物的な傾向から生まれています。周りの人がソファに座っている、という経験や、「ソファの高さは座る場所に適してる」などです。私たちはこの「認識」を持って初めて、この世界で生きていけるのです。
 
 

「虫けら掃討作戦」の世界

 では今回の「虫けら」の世界を改めて考えてみましょう。「人間の認識」を人為的に変えることができる世界、つまり、先程まで説明した「認識」の機能を弄ることができる、ということです。
 
 「認識を人為的に変更する」とは、先程の例からも分かる通り、その人が見る世界というものを他の人が変えることにほかなりません。「ソファに座る」が当たり前の認識の世界から、「ソファは足置きである」が当たり前の世界に変更できるのです。
 これは一見すると、とてつもなく恐ろしい世界に見え、まさにディストピアであるように感じます。
 
 私たちは今の認識を持っているからこそ人間であり、世界を充分に楽しむことができるのだ。人に変えられた世界など嘘の世界であり、本当の幸せ感じることなどできない。そう感じるのです。
 
 しかし実際のところ、本当の世界から偽の世界に移ることは、そう悪いことだけでも無いはずです。
 
 人間は生きていく上で、幸せな状況と不幸な状況のどちらも味わっています。愛する人と一緒にいるという幸せな時がある一方で、自分の目の前で人が死んでしまうという不幸な時があるかもしれません。人生に幸せと不幸は必ず共存しています。
 その内の不幸を、認識を変えることによって消し去ることができるようになればどうでしょうか? 確かに世界の本当の姿を見ることは出来なくなりますが、その人にとって本来は不幸な事実であったものが、幸福なものに変わるのです。現実の世界は幸せと不幸が共存している、偽の世界は幸せだけが存在している。ならば偽の世界のほうが良いのではないでしょうか。
 
 「虫けら掃討作戦」はそのような世界を描いています。人間の認識を変えて、辛い現実を幸福に変えてあげることは、果たして良いことなのかどうか。この作品は物語を通して、丁寧に私たちに説いてくれます。ぜひ視聴を通して、私達の認識と言うものを改めて「認識」するべきだと実感します。
 

余談

 「認識」においての個人的な意見を少し書いておきます。
 私は「不幸」があるからこそ「幸せ」があると思っています。どちらも相対的な概念であり、一方がなければもう一方も存在し得ないと思うのです。つまり、認識によって不幸が消された世界は、本当の「幸せ」を知ることすらできない。それが私の意見です。認識を変えることによって、「臭いものにフタをする」というのは、はっきりと害である、と思います。
 
 しかし「虫けら」の物語は少し違った状況ですので、上述した意見はこの物語に対しての意見ではありません。この物語に対してどの様な意見を持つかは、また別の話になってきます。
 

「検索」の時代に「知識」は本当に不要なのか?

 

f:id:hirohuntexp:20161229222133j:plain

 
 インターネットが普及した世界で最も革命的だったのが「検索」ではないでしょうか。インターネット検索と言うものは昔からありましたが、その精度・有効性を考えた際に革命だったのはやはりGoogleの誕生でした。
 
 「ググる」という行動を行えば、私達が知りたいこと・必要なことを簡単に調べることができます。もちろん最近起きたWelq問題の様に、その信憑性は問題になるかもしれません。しかし、そのデメリットを差し引いたとしても、その重要性は絶大なものになるはずです。世界のあらゆる人がWeb上に流した情報を、検索ワードを用いることで即座に知ることができるのです。
 
 そういった世界が実現した現在、「知識は全て検索で賄うことができるのだから、知識をもう必要ない」という意見をよく聞くようになりました。特に教育問題について問われる時、知識重視(詰め込み)の教育ではない教育が今後は重要である、という事が言われるようになりました。
 
 この提言はとても的を得ているように思えるでしょう。確かに、年号や化学記号を丸暗記する、決まった計算方式を覚えるなどの知識を積むだけでは、現代や将来の社会では通用しないでしょう。
 
 しかしこの事実と「検索が可能な世界で知識は必要ない」という話は全く異なると思います。これは「検索」の性質を根本から勘違いしていることから生まれる意見です。
 
 
検索というのは知識を0から1に作りあげてくれるものではありません。1を100にしてくれるものなのです。そして0を1にするのは、検索以前の「知識」に他ありません。
 
 今回私が言いたいことは、「検索」ができる世界だからこそ「知識」が必要だ、ということです。
1を100にするための1を作ることが重要なのです。
この事を説明するために、まずは「検索」の性質について書きたいと思います。
 

検索とは「知りたいことを調べること」

 検索という行動は、Googleなどの検索エンジンを使って、フォームにキーワードを打ち込み調べるというものだと思います。自分が疑問に思ったこと、知りたいことを上手くキーワードに落とし込み、検索結果に出てきた最良のものと思われるものを閲覧すること。それが検索という行動の実態だと思います。
 つまり「検索」というのは、あくまで人間が疑問に思う、を起点に動いているということです。人間が「疑問に思う」から「検索」という行動が生まれているのです。この「疑問に思う」が0を1にすることにほかなりません。検索キーワードなどのテクニックはある程度必要ではありますが、世界の人がweb上に上げた情報を、上手くすくい上げることができるのです。
 

「知りたいこと」が分からないと検索はできない

 繰り返しになりますが、「検索というのは人間が疑問に思うことを起点にしています」。疑問に思えれば検索は限りない効果を発揮しますが、疑問に思わなければどうでしょうか。そこに検索という行動は発生しません。
 つまり、「疑問・知りたいこと」を思いつかなければ、検索という宝刀はその切れ味を失います。検索の意義というのは、あくまで「ベースにある疑問・知識を拡張すること」なのです。ベースが無ければ、拡張するものが何も存在しないということになります。1が無ければ100を生み出すことができないのです。
 少しそれますが、所謂「情弱」と呼ばれる人は、このような検索のベースを持っていない人達のことです。ベースを持っていないと、「検索しよう」「調べれば分かる」という概念すら発生することがなく、簡単に悪意ある情報や誤情報に騙されてしまうし、検索が与えてくれる情報の広がりも全く享受できないのです。こうして検索のベースを持っていて検索の力を存分に享受できる「情強」と取り返しのつかない差が生まれてしまうのです。そして0と100の差が生まれてしまうのです。
 

生き残れるのは「検索できる人」

 先程「検索のベース」と書きましたが、それは一体何なのでしょうか。私はそれが「知識」であると思います。知識を得ることによって、捉えどころのない世界を、上手く言語化することによって、自分の中に取り入れることができます。少し抽象的な言い方ですが、「知識を得ることによって、その人にとって初めて、その対象が世界に存在する」ことになります。そうして世界に関わるベースを養ことにより、そこから「知りたいこと」を考えつくことができるようになります。0から1を作り出すことができるのです。
 
 検索が当たり前になったからこそ、それを使いこなせる人と使いこなせない人では雲泥の差が生まれます。これは検索に限った話ではなく、テクノロジーとは常にそういった側面を持っています。しかし個人的にですが、検索というのは他のテクノロジーにも増して、使いこなさなければならないテクノロジーなのではないでしょうか? 世界のことをより良く知れると言うのは、私達が社会を生きていく上で最も重要な要素になるのではないかと思います。0と100では比べようもない格差が生まれてしまいます。
 

まとめ

 検索できるということは、あらゆることを疑問に感じることができる、ということです。疑問に感じるというのは、世界に起きている問題を見つけることができるということです。問題解決できる人になるためには、まず問題を見つけられる人にならなければいけません。
 知識を積み上げることによって、世界に対しての視点を広げることによって、「検索」できる人間になり、世界にある問題を解決できるスタート地点に立つことができるようになると思います。

クリスマスは何故楽しまれるイベントになったのか?

f:id:hirohuntexp:20161224211946j:plain

 

 クリぼっち

 クリぼっち(クリスマスにぼっち)という言葉があるそうです。私はこのワードを今年始めて聞いたわけですが、いかんせん響きが良い言葉なので使っていこうと思います。
 
 ところで「クリぼっち」についてはこんな記事が出ていましたね。 

www.news24.jp

■20代から30代の男女に「クリスマスを誰と過ごすか」アンケートを行ったところ、1人で過ごす人が半数以上になっていることがわかった。

・1人で過ごす 52.2%
・彼氏・彼女と 25.8%
・友人と 11.2%
(出典:レオパレス21 ひとり暮らしをする社会人20代~30代 男女600人対象)

 

  記事をよく見ると、このデータは20~30代の一人暮らしの男性女性が対象です。所謂若者と呼ばれる世代、かつ同棲や実家暮らしではない人が母数集団であるということです。同棲している人や実家暮らしでぼっちの人がどの位いるのか分かりませんが、それでも結構な数の若者がクリスマスにぼっちで過ごしているということですね。

 
 でも、そもそもどうしてただの平日にぼっちでいることがニュースになり、「クリぼっち」なんていうワードが作られてしまうのでしょうか。キリストの聖誕祭でしか無い日を、特別扱いすることの方がよく分からないことなのではないでしょうか? どうして日本ではクリスマスイベント=「楽しむべきもの」として社会で認められているのでしょうか。
 
 一応日本においてのクリスマスの起源としては
が詳しいのでこちらを参照してください。
 
 

クリスマスは何故楽しまれるものになったのか

 この記事で言いたいことは、どうしてクリスマスが現代において「楽しむべきもの」として認識されているかです。
 
 もちろん色々な企業が戦略としてクリスマスを活用して利益をあげようとしているが、ここまでの規模のイベントになった原因ではあると思うのですが、主な理由は違うところにあると思います。ですがここまでクリスマスが騒がれる理由は別のところにあると感じます。それは
 
人々がただ単に楽しみたいが故に、クリスマスイベントを「楽しむべきもの」と認識するようになった
 
ということです。(非常に抽象的ですいません)
 
 私が思うに、人間には本来生きている意味などありません。ただ偶然に生まれてきて、生物的活動を行い、そして寿命や病気など生物的な停止が訪れた時に、その人生が終わるだけです。ということは本来的な意味においては、人間がこの世界で活動する意義など無いはずです。それでも人間は「意義」を見出したい、「幸せ」に生きていたい、という欲求を持ってしまっています
 
 本来的にその解決方法が無いのであれば、人間は一体どうやって人生の意義や幸せを感じているのでしょうか?
 
 それは自らが「人間にとって都合の良い(幸せを与えてくれる)フィクション」を生み出すことです。例えば、宗教はある人達にとって生きる意義や幸せを与えてくれます。普段の生活に生きる意味を導き出すことができなければ、この世界で生きていくことが難しくなってしまいます。そういう意味で、宗教は人間が生み出した、「自分たちを幸せにしてくれるフィクション」だと言えます。
 
 ではクリスマスイベントはどうでしょうか? クリスマスイベントも同じことだと思います。
 その本来的な意味は「キリストの生誕祭」でしかありません。しかしそこにサンタクロース、プレゼント、イルミネーションなど様々なものをフィクションから生み出すことができれば、それらは人間にとって「幸せ」をもたらしてくれるものになります。クリスマスの実際の意味などどうでもよく、自分が幸せを与えてくれれば、それで良いのです。
 
 クリスマスイベントを純粋に楽しむことができる人達は、そのような「自分を幸せにする方法」を良く知っているのです。本来的に意味など無い人生を華やかに色付ける方法論を無意識に感じ取っています。クリスマスイベントという「自分に幸せをもたらしてくれるフィクション」をしっかりと活用できているのです。
 
 このように、クリスマス=楽しむもの という構造は人間にとってとても有益なものであると思います、無味乾燥な人生に幸せを与えてくれるからです。そういう意味で、クリスマスは素晴らしいイベントだと言えます。
 
 

楽しめない人はどうすれば良いか?

 ではそれらを素直に享受できない私たちはどうすれば良いのでしょうか。
 それにはやはり、他の人達と同じように「自分にとって幸せなフィクション」を見つけ出すことにほかなりません。それはアニメを見たり、ゲームをしたり、もしくは相当に特殊なものかもしれません。けれど「自分にとって」の有用なフィクションを見出すことができれば、その人は今後幸せに生きていくことが可能なのかもしれません。
 
 まぁ人は承認欲求を持っていますので、純粋に「自分にとってのフィクション」を探すのは難しいことです。本当は楽しくても、多くの人から良い目で見られなければ、楽しめなくなったりしますからね。「自分にとって」と「周りから見て」の幸せを、良いバランスで見つけるしか無いのかもしれません。
 
 
 ちなみに私は、クリスマスという幸せを存分に享受している人達を、ケンタッキーの店の中から1人で眺めながら、この記事をを書いています。