有名人と庶民が同じことを言った時、説得力に差が生まれてしまうのはどうしてか?

 

・同じ言葉でも、有名人が言ったほうが価値が大きい

 しばしば私たちは、有名人がしょうもないことを言っていても、それがたいそう素晴らしい言葉かのように聞こえてしまいます。一方で名も知らぬ庶民が素晴らしいことを言っていても、私達にとってはそれは聞く価値の無い戯言にしか聞こえないこともあります。
 
 どうしてこのような事が起きてしまうのでしょうか。
 
 同じ文章が書かれていれば、書く人が誰であれ、それは同じ価値しかないはずです。有名人が書こうと、庶民が書こうと、同じ文章ならばそこに差が生じてしまうのはおかしいはずです。
 
 それでも人は有名人の言うことに説得力を感じて、そこに価値を見出します。これは多くの人が感覚的に理解できることだと思います。陳腐な文章でも、有名人が言えばそれは価値のあるものになるのだと、多くの人が肌で感じているし、それは当然のことであるようにも思えます。
 
 しかし、どうしてこのような事が起きるのか、改めて考えると意外と複雑です。
 同じ事を言う人が違うだけで、受け取り側にとって雲泥の差が出てしまうのはどうしてなのでしょうか?
 
 
 

・情報とは何か

 まず「情報」というものの性質について知っておかなければいけません。
 
 「情報」というものは何でしょうか? 
  1. あるものごとの内容や事情についての知らせ[1]のこと。
  2. 文字・数字などの記号やシンボル媒体によって伝達され、受け手において、状況に対する知識をもたらしたり、適切な判断を助けたりするもの[1]のこと。
  3. 生体が働くために用いられている指令や信号[1]のこと。
  4. 情報理論(通信理論)での用法)価値判断を除いて、量的な存在としてとらえたそれ

情報 - Wikipedia

 
 言い換えると、情報というのは「ある人間にとって、行動や思考を変化させるもの」です。情報を得れば、その人の思考や行動が変わるということです。もしあなたが受験先の学校を迷っていて、「その学校は校則が厳しい」という情報を得たとしたら、あなたのその学校に対しての思考は変わったものになるはずです。そしてその情報をきっかけに、実際に取る選択肢は変わり、行動も変化するに違いありません。
 
 この様に情報は「人間にいかのように変化を与えるか」で語られるべきものだと分かります。
 
 
 
 
・どうして同じ言葉に価値の違いが生まれるか?
 
 では当初の問題に戻って、どうして有名人と庶民の同じ言葉は、受取側の人にとって価値が変わってくるのでしょうか?
 
 それは情報の性質をそのまま当てはめればすぐに分かることです。受取側の「思考や行動を変化させる度合い」が全然違うからです。有名人が言う方がその名の通り「情報量」が多いが故に、「価値」も大きいのです。
 
 それは既にその有名人を知っているということに由来します。その人がどういう人物であり、どういう経歴があり、どの位多くの人に認められているのか。それらも受け取る人にとっては紛れもなく「情報」となっているのです。名も知らぬ人が言っている事実からは得られない情報量が、有名人が入っている事実には含まれているのです。情報量が多ければ、受け取り側にとって価値が大きいに決まっています。
 
 まとめますと、
  • 「情報量」と言うのは、受け取る人にとって「思考や行動が変わる度合い」であるということ。
  • 有名人は経歴や信頼を勝ち取っているがゆえに、陳腐な言葉でもそこに上乗せされる「情報量」が多い。
  • 故に、同じ言葉でも、無名人より有名人の方が、人にとって大きな価値を与えることになる
ということです。
 
 今更ここまで文章化する必要はないかもしれませんが、これは私たちにとって一つの行動の指針になります。
 
 自分の意見や言葉を人に認められたい。そう思った時、良い言葉を言う事はもちろん大事ですが、それ以外にも必要な事はあるということです。
 
 文章でものを伝えるようとするときにも、「言葉以外の情報」を上乗せすること大事なのだと思います。

松本人志の「ドキュメンタル」が提供してくれた新しい「お笑いの形」とは?

 松本人志の「ドキュメンタル」の最初のシーズンが終わりましたね。この番組はテレビでは到底放送できそうもない類の番組であり、松本人志が人生をかけて追求した「お笑い」と言うものの、一つの形として製作されたそうです。
 
 ではこの番組は実際どうだったのでしょうか。
 

「ドキュメンタル」が提供したお笑い

 まず「ドキュメンタル」の面白さとはどういうものなのだったのでしょうか。「ドキュメンタル」はどういった企画だったのでしょうか。
 
 それは
「芸で笑わそうとしている人をみて、笑わない様に努力してる人」という「お笑いの場」を見て楽しむ企画
であると思います。
 
松本人志はお笑いというものを追求して、結論として「部屋の中のお笑い」が一番答えとして真なんじゃないか?と言って、「ドキュメンタル」を考案したそうです。しかし視聴者側からしてみれば、その場を視聴するという一歩上の次元に立つことになり、
 
松本人志が期待している一番の面白さ(部屋の中の面白さ)」という「場」を見て笑うということになります。
 
 またその「お笑いの場」は「お互いが笑ってはいけない」という制約を課されることで余計に強化されます。笑ってはいけないという制約があると、自分がどういう時に「笑う」のかが浮き彫りになります。「お笑い」というものを表すのは難しいですが、「笑ってはいけない」というものを出すことによって、逆に「お笑い」を顕在化することに成功しているのです。
 
 つまり「ドキュメンタル」は、
お笑いというものを顕在化する「笑ってはいけない」という制約をつけた「部屋の中のお笑い」、という「場」を提供する
企画であるということです。(わかりにくいですね)
 

今シーズンのMVPはフジモン

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 このように捉えた時、今回のシーズンでのMVPはフジモンだったのではないかと思います。フジモンのニヤケ顔が、あの「場」の雰囲気を一番視聴者に伝えたのではないかと思います。フジモンがニヤけることによって、目には見えない「お笑い」というものが、それを我慢することによって、物凄く表面化していました。
 
 「笑わないように努力している人」の「笑いそうな顔」の破壊力は凄いです。あそこの「お笑いの場」がよく伝わってきます。「ドキュメンタル」はお笑いというのを、その「お笑いの場」を感じることによって味わえる、という構成になっていて、お笑いの次元を一歩上に上げたのではないかと思います。
 
 フジモンはその役割を完璧に演じることができていました。
 
 

残念だったところ

 ということで番組は物凄く楽しんでみることができました。
 一方で少し残念だった点もいくつかあります。
 
 一つ目は「笑ってはいけないルール」が曖昧だったことです。どこまでの笑いは良いのかなど、少しぶれてしまっていたかなと思いました。
 
 二つ目は、ゲームの構造上の問題です。笑いに態勢ある人が最後に残っていくわけですが、少人数になるにつれて「お笑いの場」の効果は減衰してしまいます。それに加えて彼らは笑いに強いわけですから、その「お笑いの場」はドンドン弱くなってしまいました。結果として3人が残ってしまったわけですが、よくよく考えれば想定できた結果でした。
 
 シーズン2はどうなるのか、今から期待で胸が一杯です。

「現実とは何か」  ブラックミラー 「サン・ジュニペロ」 感想

 Netfilxのオリジナルコンテンツである「ブラックミラー」というオムニバス式のシリーズの中の「サン・ジュニペロ」を視聴しました。

 

 「ブラックミラー」というシリーズは、現代・近未来において、何かしらのテクノロジーが社会の中に成立した世界を舞台としています。その舞台の中で物語を展開することによって、現在・近未来のテクノロジーが私たちにどのような影響を与えるのか、私たちをどのように変えてしまうのか、ということを訴えかけています。


Black Mirror | Official Trailer - Season 3 [HD] | Netflix

 

↓ 多少のネタバレはありますが、視聴に当たってはさほど問題ない程度です。

 その中の「サン・ジュニペロ」

 

 この作品で描かれている世界は「意識をクラウドにアップロードできる」テクノロジーが成立した世界です。レイ・カーツワイルの「シンギュラリティ」しかり、この手の話は、現代においてホットトピックになっています。AIを題目にするならば、「知能とは何か」、クラウドの人格をアップロードを題目にするならば「意識とは何か」

 

 今回は後者です。

 作品では、「現実世界における死」というものを「クラウド上に意識を移動する脱出の機会」と描いています。現実世界で肉体が死ぬということは、決して「人」が死ぬことではない。人を人足らしめている「意識」をクラウド上の「永遠の世界」に脱出させる機会なのだと、この作品は描いているのです。

 

 「サン・ジュニペロ」というのは、その脱出先の「意識世界」です。その実は、テクノロジーによって実現されている世界なので、現実世界に存在する大量のハードウェアによって生まれている仮想世界です。しかし、意識を移動させた人たちにとっては紛れもなく「現実」なのです。

 

 「サン・ジュニペロ」には多くの人が住んでいます。

 死後に意識を移動させてきた「永住民」、お試しでトライアル版を体験している「観光人」が、その町で活動をしています。現実世界で死んでいる人たちの意識が大半を、現実世界でまだ生きている人たちの意識が少数を占めている町。そんな町が「サン・ジュニペロ」です。

 

 死を終えた人たちと、まだ生を享受している人たち、そんな真反対の人たちが共存している町。これは何とも素敵で、恐ろしい町だと感じます。普通では考えられない共存を描き出すことで、普通では考え始めないような問いを問い始めてしまいます。

 

 それは「現実とは何か」という事です。

 死を終えた人も、まだ生きている人も、その世界で活動をすることができるのなら、

 

肉体の死と生はどのような違いがあるのでしょうか。意識が活動することができれば、肉体の存在する現実世界は、人にとっては必ずしも必要なものではないのでしょうか。

 この作品は1時間という短い時間を駆使しながら、その問いに詰め寄っています。

 

 作品のラストシーンを見れば、この作品の答えを察することができます。この難しい問いに、この作品はどのような答えを用意したのか、ぜひ視聴して確かめていただきたいですが、

 

 私が感じ取った答えとしては「人と人の関係が存在していれば、そこは人にとって紛れもない現実である」というものでした。

 

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どうして結婚する人が減ってきたか。それは単にリスクを知るようになったから。

 なぜ結婚する人が少なくなっているのか考えてみました。

 
 結婚する人は少なくなっているとはいえ、自分の生活の中では比較的まだまだ身近な事なのではないでしょうか? とりあえず「婚姻率・離婚率」というグラフを見つけたので参照してみます。(*1)
 
 

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            婚姻件数・婚姻率の推移(~2015年)

 

 このグラフを見るとやはり婚姻率は下がっていることが分かります。

 

 結婚のリスク

 婚姻率がここまで下がった理由はいくつかあると思うけれど、一番影響をしているのは「結婚に対する信頼の低下」だと思います。そしてそれを引き起こしたのは、「インターネット上で結婚のリアルを知るようになってしまったから」です。
 
 「ある人との結婚」に対して信頼が高い人は、例えば相手の性格や経済力などに信頼を持つことになり、その信頼を元に自分の生活を組み立てるようになっていきます。それは結婚という性質上当たり前のことであり、そうしなければ結婚をする意味がないでしょう。子供を育てる、金銭を共有する、行動を共にする、というのは、「相手を信頼していること」をベースに成り立つ行動です。これは相手との信頼が続く限り、感情的にも経済的にも大きなメリットをもたらしてくれると思います。
 
 しかし認識しておかないといけない重要なことは、「その信頼の根拠は徐々に実際とずれていく事が多い」ということです。
 
 人は常に変わる存在です。外見も変わっていくし、性格もちょっとしたことで変わることがあります。経済力も今の時代安定したものとなるのは難しいです。結婚相手をどの様な視点で捉えて、それを根拠として相手を信頼するとしても、その根拠は将来崩れてしまうことがある意味当たり前なのです。
 
 そうした実際的な意味を考えると結婚に意味は無いのではないかと思います。日常の生活を考える限り、リスクは充分に存在しているからです。性格が合わなくなったり、経済力に不満が出てきたりしてくると、一緒に生活をするだけで感情的にも経済的にも不利益を被る事になります。
 
 そのように捉えると、結婚は大きなリスクを伴う単投資であり、金融業界では常識なリスク分散ができていません。過度に一つのものに信頼を置いてしまうため、その信頼が崩れてしまったときの影響度が大きくなってしまいます。このように、生活に準拠して結婚というものを考えると、結婚は確かに大きな利益をもたらす可能性はあるけれども、大きなリスクも確かに存在していると思います。
 
 当然、結婚を信頼しなくなると婚姻率は少なくなっていきます。「自分の生活にリスクを持ってきてしまうのなら、そんな行動は取らないよ」という人が多いのは自然なことです。現代はそのような情報がインターネット上で身近なものとなり、そのリスクをとても身近に感じてしまうのです。その帰結として、結婚を敬遠してしまう人が増えているのではないでしょうか。
 

リスクうんぬんで結婚を捉えない立場

 だけど一つ忘れてはならないのは「結婚というものは普段の生活を第一の根拠として考えるようなものではない」と考える人もいるはずということです。
 
 これはどういうことかというと、結婚はその全ての生活を一括りにして語るべきものであり、生活上に出てくるデメリットこそが結婚のメリットの一部であり、その幸せと不幸せの両方を人生に取り入れることが結婚の意義なのだ、ということです。
 
 確かにこの意見にも一理あるように思います。
 結婚生活は確かに苦難もいっぱいあるけれども、それを一つ一つ断片的に捉えるのではなく、全体の一部として捉えようと。苦難を経験して長続きしたからこそ生まれるものもあり、結婚は人生にそういう大きな要素を取り入れてくれるものなのだと。
 
 ある意味このような結婚の捉え方は、結婚というものに大きな幻想を持っているようにも感じてしまいますが、そのような幻想を持ち続けることは人間の幸せにとって重要なことなのかもしれません。幻想を抱き続け、それが人の幸せに大きな貢献を果たしてくれることは当然あるでしょう。なにせ、私達の人生は実質的に生きている意味などないので、そのような枠組みを自分の人生に取り入れるのはとても重要な事です。結婚をその一つの幻想として持っておくのは、人生にとって大きな意義があります。
 
 結婚が引き起こすリスクを、インターネットで簡単に理解できてしまう今の時代、結婚はどうなっていくのでしょうか。結婚というフィクションがもたらす幸福を信じる選択をとるのか、それともラディカルに考えて結婚というリスクをとらない選択をするのか。それとも他の選択として、結婚という手段を取らなくても、子供を出産し友人たちと一緒に育てていくという社会的な習慣も生まれるかもしれません。
 
 人間が考え出した結婚というシステムが、今の私達の時代、どう語られるべきなのか考えることは、今の社会に生きる上でとても大事なことなのではないかと思います。
 
 

余談: 祖父の死から感じた結婚、血のつながり

 
 先日、私の祖父が亡くなりました。
 その時に感じたことから、結婚と言うものを捉えてみようと思います。「死の場面から見た結婚感」ということです。(最も、この場合の死とは他者の死ですが)
 
 私の祖父は3人の息子を持っており、各々の息子達も結婚しています。そして息子たちはそれぞれ3,3,2人の子供を産んでおり、祖父から見たら合計7人の孫がいたということになります。
 
 つまり、3人の息子と7人の孫、そして3人の息子の妻、という13人の密な家族関係を持っている人達が、自分の亡骸の周りで悲しんでいた、ということです。
 
 私は、この13人は何なのだろう、と感じてしまいました。家族関係とは言いつつも、私に関して言えば、普段生活を共にすることはほとんどないし、体験をあまり共有してきませんでした。だけど確かにこの13人は密な関係を持っているように感じました。
 
 通常の友人関係で考えるならば、私はこの亡骸の前に姿を表わすことはなかったに違いありません。体験を共有する事は少なく、お互いをそこまで知らない集団に紛れることはないでしょう。でも家族関係ならばそれが日常の様に感じられるのです。これはとっても不思議なことではないでしょうか。
 
 現代社会、私達は様々な選択肢を取ることができます。人とのつながりもあらゆる選択肢があるため、嫌ならばすぐに離れるということも可能になってきています。故に長期間同じ人達と関係を続けるということが少なくなってくる可能性があります。
 
 人とのつながりも分散が進む社会の中で、家族というコミュニティは異質性を持ったものになります。それが残されていくものなのか、解体していくものなのか、どちらに転ぶのでしょうか。